昭和42年9月24日 夜の御理解      




 八女郡の、この頃お参りがございますが、はじめ、一人の人が御神縁を頂いてお参りをして来るようになった。それで、そのお友達にお導きをさせてもらった。その友達とが、また、次々とお導きをさせて頂く。今日は、その方達が4人、新しい二人の友達をお導きして参って来た。
 もう、とにかくお参りをさせ、もう頂く、絶対おかげを頂くと言うて、まあ、お導きして来るわけなんですね。一人の方は、もう、本当に不思議な、金銭のおくり合わせをお願いしておかげを頂いて。それから、次に導て来た人が、ご主人が建設屋さんです。特に、この舎監関係の建築屋さんが久留米の方へ店を持つという、そのことのお願いからでしたが。大変、悩んでおったのが、ご神意のままにおかげを頂いてから、非常に久留米の方が、まあ、繁盛のおかげを頂いておるという、それはお礼のお届けでございました。
 そして今日、大変、まあ、親戚以上に付き合うておるというお友達。一人は、ご主人を亡くされてから、生命保険の女セールスをしておられよる。一人は、別にどうということないだったんですけど、まあ、一緒に付いて参って来たという事だけでしたが。とにかく、合楽にお参りした時に絶対おかげ頂くと言うて、まあ、連れて参った。
 また、事実、おかげを受けておるんです。だからね、もう、それは、私もそう思うんだ、と。もう、おかげは絶対なものだ、と。だから、問題はね、その絶対のおかげを頂いて、おかげを落とす人がたくさんあるということです。ね。だから、貴女たちも、そういう部類にならんように、しっかり信心のけいこをしなきゃいけませんよ、と言うてですね。
 これは、もう、おかげは絶対なもの。ところが、その絶対なおかげを頂いて、次に今度はおかげを落としたら、もう、せっかくのおかげが、おかげにならない。神様に、まあ、また、その、不足を言わねばならんようなことにすらなり兼ねないのだからと言うて、そういうお話をしております時です、もう、今日はちょうど、お祭りの、道路から駐車場の方へだけでも、あの、もう、今日は男の方達ばっかりが御用奉仕をなさっておられました。その、ここへ参る度、そげんして、皆さんと御用しよんなさるがという話からでしたがね。ね。例えば、ああして、御用をなさるでも、なら、こうして御造営が出来るでも、誰でも、その、ただ何でもない、(すいきょう?)に、例えば、ああして御用を頂いとるのじゃない。昨日は、霊祭です。もう、みんなで出て来ておられたんですね。今日もまた、続いてのことですから。
 言うなら、二日間もお仕事を休んでからの、今日は御用奉仕。朝から、もう、夕方まで、今、御用されましたんですけれどもね。その、そういうような御用がですね、その、有り難く出来るというところにね、信心の、いわゆる、おかげを受けてもおかげを落とさんという、落とさんで済む信心というのを、ああして、けいこをなさる。いわば、身につけて行きよんなさるとですよと言うて、お話したことでございます。
 お互いがね、おかげは絶対なもの。これは、もう、絶対なもの。けれども、そのおかげによって、おかげを落とさんためにです、心から奉仕する心。ね。いわゆる、神様へ仕え奉る心というものが、日常生活の中に出けてくる。ね。そういう信心にならせて頂いた時に、頂いたおかげを落とすどころではない、そのおかげが、いよいよ育って行くところのおかげ。
 それが、徳にも力にもなり、あの世にも持って行かれ、この世にも残しておけるというような事にまで、信心しておかげになって来るのです。今日、善導寺の中村さんから、手紙が。私は、この手紙の一節を、現在、病院に入院しておられますけど、読ませて頂きよったら、もう、とにかく感激するんですね。
 その一節を呼んでみますと、合掌、今日もお生かしのおかげを頂きまして有り難うございます。天地の親神様をはじめ奉り、親先生、日々を広大無辺の大みかげを頂きまして有り難うございます。厚く厚く御礼を申し上げますて。ご無礼だらけの、不都合だらけのこの身。何とぞ、お許し下さいませ。何とぞ、一心のお願いでございます。真の道に進ませて下され、清まらせて下され。光り輝く胸中、胸の中です。光り輝く胸中にご苦労下さりませ。当地より一心に、お願い、おすがり申し上げます、と。お願い申し上げおります、と。例えば、この日のことを、感激して来るんです。
 もう、自分は死ぬか生きるか分からんというような病人さんなんですよね。それがです、不都合な私をお許し下されというだけではなくて、どうぞ清まらせて下されい、と、本当の信心を分からせて下されい。どうぞ、私の心の中に、光り輝く心を頂かせて下されい。心が闇です、どうぞ、心に光りを与えて下されいと言うて、その、願うておられる。
 その、祈りの言葉をそのまま、ここに書いておられるわけですね。私は、こういうような信心にならせてもらう時にです、私はおかげを落とさんで済むおかげが受けられると思うんです。また、そういうおかげの見通しがつかなければです、本当のおかげは、神様は下さらないということです。ね。
 おかげを頂いたら言わん、おかげを頂いたら慢心する、おかげを頂いたら贅沢する、おかげを頂いたら、ね、例えば、数を上げれば切りが無いことでございますけれどもです、おかげを頂いたことが、かえって信心を汚したり、怪我したりするような為に、何の神様がおかげを下さろうか。
 そこで、死ぬか生きるか分からないほどの、いわば病気の中にあっても、どうぞ、助けて下されいと言うておられるのですね。この先に書いてございます。先日は、もう医者も、いよいよ難しいと言ったのでございましょう。子供兄弟で全部参りました。私もそれを感じましてから、ね、ただ、遺言のようなことだけは申しましたけれども。ね。
 その時に、私が子供達に、子供で、あなた方が揃うて、もう一遍、合楽にお願いに出てくれと言うて、お願いに、この頃、一緒に出て参りました先日。そのことを境に、また、ここで少しずつ元気になって、今では、ご飯も美味しく頂けるようになり、まあ、ちょっと動くことも出けるようになったというようなことが、最後に書いてございますけれどです。
 そういう中にあってです、どうぞ、神様、清まらせてください、と。どうぞ、真の信心を分からせて下さい。そういう中からです、そういうすがり、そういう願いがあって、それが本当にすがっておる通りに、中身は強まって行き、本当に真の信心が出けて行くということの見通がついた時に、神様はおかげを下さる。
 そういうおかげを、私は、本当なおかげだと、こう思うのですよね。どうぞ、お金をおくり合わせを下さい、お金をおくり合わせを下さい。と、例えば言うて、おかげを、おかげは絶対だから頂くにしましても、それで、なら、いつまででも、やはり、お金の不自由をする。困った時にお願いをする、おかげを頂く。困っておる、またお願いをする、おかげを頂くというような事ではいけないのだ、と。
 もう、本当にお金にだけには不自由せんで済む。これだけのおかげを頂いたら、もう、この徳を受けておるというようなおかげを頂くためにもです、そのおかげを頂いて落とさんで済むだけの、人間というものが出けてから、心というものが頂けてから下さるおかげを持って、本当のおかげであると思い、また、それをです、ね、そこに焦点置かずして、いくら、さかさんぼうを打って願っても、本当なおかげを絶対、神様は下さりゃせんということですね。
 そのことを私、久保山さん達に申しました。そうだ、あんた達が体験しておるように、本当にこの神様はおかげだけは絶対だもんね。けども、その絶対のおかげを頂いて、どのくらい、ここでおかげを落としておる人達があるか分からんように、ここ17年の間に。と言うて、その、おかげを落とした見本のような話しとるんですけれどもね。ね。
 ですから、そういう時にです、私どもが、今の中村さんの、その手紙内容じゃないですけれども、どうぞ、清まらせて下さい、真の信心を本当に分からせて下さい。もう、自分はあの世行きか分からないような状態の中にあって、本気で清まりたいと、こう願うておられる。そういう願いがね、私どもの上になされる。ね、それが本当に行の上に現される。
 本当に、その願いを持つように、私が変わっていくところのおかげを頂かせて頂く。そこに、神様が、ああ、この氏子になら、もう、おかげを渡しても大丈夫というようなです、信心が出けてから、ね、頂かせてもらうおかげでなからなければ、そのおかげは、本当なおかげとは言えないということを思いますよね。
 私、これは読ませて頂いた、平気で読みましたけれど、先ほど、自分だけで読んだ時には、そこんところだけを聞いておってから感激しました、心の中で読んだだけでした。ね。どうぞ、清まらせて下さい。ね。どうぞ、心の中に光り輝くものを頂かせて下さい、と。どうぞ、真の信心を分からせて下さいと、こう、本当に願うこと、信心とは。以外にない、ね。
 それで、それが私の心の中に少しずつ出けて行きよる。それが楽しい。それで完全に出けてしまうということはあっても、なかなかでございましょうけれども、確かに、その清まって行くことが、光を頂いて行きよることがです、自分にも感じられれるようなおかげ。それが楽しみになるような、それが、お参りになるような、修行になるような。
 その喜びが、なら、今日、皆さんがなさっておられる御用のようなことにも現われて来るようなおかげを頂いてこそ、初めて私は、神様が安心しておかげを下さるのじゃないだろうか。そういうおかげこそ、本当なおかげだ、ということが言えると思うですね。どうぞ。